「平成28年熊本地震」および「令和8年熊本地震」の話題を含みます。ご了承の上お読みください。
昨日から、熊本地震の報道をずっと見ている。気になってしまうから。
思い出すのは、10年前の熊本地震のあと、熊本日日新聞の記者のコラム「デスク日記」に書かれていたこと1。
「私はマスコミではありません。熊日の記者です。」
マスコミの取材お断りと言われた記者が、咄嗟に口にした言葉だ。熊日の名刺を見せ、家にあげてもらえる。そして言われたのがこの言葉だ。
「熊日さんは、私たちと同じ熊本県民。一緒に被災した熊日さんだけは、ほかのマスコミとは違う。」
熊日をはじめとする、熊本のマスコミは、たしかにれっきとしたマスコミである。しかし、そこに勤める人々は熊本に生きる被災者でもある。
オーディエンスにいる側は、自分を含め、そのことを忘れてしまう。
自分は本当にただちょっとテレビとかラジオとか新聞に興味があるだけの人間なので、実際のところはよく知らないのだけれど、熊本のテレビ各局は報道特番を流し続け、それだけでも相当な負担になっているのではないかと思う。細かなインフラ情報や事故を拾わねばならない。だからこそ、全国ネットで注目されるような事象を分担して拾うためにネットワーク各局が応援にやってくる、という実情もある。ちょっとだけ役割が違うのだ。

震災があるたびに、関東や関西のマスコミが出張ってくることを厳しく言う向きもある。物見遊山なんて言葉を使って揶揄する人もいる。しかし、「その物見遊山な人たち」が汗水垂らして集めた情報を、少なくともある程度は信頼し、そこから被災地の状況を知っているわけである。それを物見遊山なんて言い方するのは、なにいっとんじゃ、という感じはちょっとする。
だからといって、マスコミが大挙して押し寄せることを賞賛しているわけでは決してない。現地にとって迷惑なことも本当に多いのだろう。しかし、過去の震災報道のあり方にはその都度反省があり、その反省は毎回活かされ洗練され続けているように、自分には思える。なるべく被災地に迷惑をかけないための積み上げがある。人の営みである以上、完璧ではないが、今回もまた積み上がっているはずだ。そうだと信じたい。
少なくとも自分は、今回の報道をいろいろ見て、同じ被災者の視点だから語れること、語ってもらえることもあれば、被災者じゃない人の視点だからこそ語れることや、語ってもらえることもあるな、と感じている。役割の違う人たちがやってくることは、被災地にとってしんどいことではあるはずだ。しかし、その営みによって被災地を知る自分がいることは自覚しておきたい。
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